にしあにモジモジ日記 2019.1107(木)

生涯敵わない奴。がいる人生。

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20歳代だったバブルがはじけただのなんだの「スコラ」が騒いでいた1980年代中半。戸塚から目黒区柿の木坂のアパートに引っ越して張り切っていた頃。

相棒のタデコから「原マスミ観に行こ~♪」っつって誘われるまま、何度が渋谷公会堂やスタンディングオンリーの箱に観に行った原マスミというアーティスト。

全国の地方から夢みて上京してきた同い年の東デ出身のデザイナーってのは、やっぱどっかすげぇなぁ……と、改めて自分の相棒をリスペクトしたものでした。

あのまま戸塚に住んでいたら、沼田元気もスージー甘金も立花ハジメも奥村靫正も筋肉少女帯もヤプーズっつ~か戸川純も矢野顕子もYMOもテリー夫妻も宇宙百貨もレコード屋さんのシカゴもスープ屋もとなりのミヨちゃんもNICEも大中も……自由が丘や吉祥寺や下北沢やキャットストリートにあったこまごまとした魅力的な変な物を売ってるお店……うっかりしてると渋谷のパルコで毎年展示されていたグラフィック展すらスルーしてしまっていたかも知れない。

と思うと、20歳の時に後輩として同じカイシャに入ってきた蓼沼多美江に出逢ったことを、ココロから感謝するにしあになのです。

全然書ききれていない、80年代に「これでもか~!」と生まれた文化を生み出したアーティストやお店達。

敢えてサブカルチャーのままカッチョ良く伝説になったり、商業主義に上手に乗っかってハイカルチャーになったり、「想い出」として消えたり……色々ですが、戸塚の田舎ッペだった「んふ~、既成の価値観と闘った60年代から70年代の若者ったら……」なんつってるクソみたいな若造の横っ面を叩いて、「今とすぐ来る明日」を観なくっちゃいけねぇ。ということを教えてくれた存在が、同い年で群馬から出てきて東京デザイナー学院の中野寮に入って変人ばかりのクラスで好き勝手やった挙げ句に縁あってにしあにが勤めるデザイン事務所に紛れ込んだ来た蓼沼多美江(タデコ)というへんてこりんな美少女だったのでした。

にしあには中一を二度経験。

タデコは短大を一学期で中退(バイトして東デに)。

社会人3年目だったにしあにと同い年の後輩デザイナーとして、銀座コリドー街近くにあった㈱サン・プランニングにやって来た、ポヤンポヤンした鼻の高い瓜実顔の美少女。

同時入社したのは、にしあによか背が大きくて美人でテキパキしている女子美卒のTさんとオイラよか二つ三つ年上だけど、デザイナーとしての経験はよくわかんない東十条のアパートに住んでいた男性のKさん。

Kさん、当たりが柔らかくて良い人なんだけど、「事なかれ主義を信条」にしていると宣言する……21歳・3年目のデザイナーから見ても「クリエイターじゃなくて、地元の区役所に勤めた方が居心地がいいのではないか?」というオッさんで、案の定2年持たずにいつの間にかいなくなっていました。オトコもオンナもない、面白がってシゴトしている者勝ちなデザイナーの世界です。大したキャリアもないのに一週間無断欠勤したら……忘れるよぉ……「戻って来てください」って、言ってもらいたかったのかなぁ……お前さんなんぞ、オイラがタデコにひとことなんか教えればすぐに越えるんだよ……アンタ、面白い人だけど、自分を買いかぶっちゃいけねぇ…… (^◇^;)

その頃、にしあには5年目。先輩方がポロポロと自分の目指すココロザシを持って辞めていったため、チーフデザイナーのような立ち位置になっていました。

……という、「んふふふ~、なんかやべ~、一人前にならなくっちゃいけねぇだ~ん!!」なんて思って、睡眠時間が平均四時間くらいだった頃(当時、ブラック企業というワードは存在していなかった)、一緒に暮らしていたタデコに教えてもらったアーティストのひとりが原マスミでした。

https://www.youtube.com/watch?v=badhBptpVUo

初め、アルバムのCDで「海で暮らす」という曲を聴いたとき、男だか女だか分かんない声で内蔵に向けて語りかける様に歌う音を聞いて怖がったにしあに。

「きゃははははは~♪ やっぱそっか~。あははははは。でも、15分我慢したらいいよ~(^^)」

目黒区の六畳一間のアパート、白百合荘で流れ続ける原マスミ……。

小中学生の頃から、漫画雑「ガロ」や「COM」や「奇想天外」や「マンガ少年」や「ばく」や「カスタムコミック」に親しんでいて、雑誌「ビックリハウス」や「ぴあ」が大好きで、クラフトワークやヒカシューの音楽を聴きながらライオットやジューダス・プリーストやスコーピオンズ等のハードロックや甲斐バンドやロックの頃の泉谷しげるのコピーバンドのボーカルをやらかした青春時代を過ごしていた(英語の歌詞は全部デタラメ・笑)

「んふ~……」っつって、2ヶ月後に〝判型がちっちゃくて無線綴じだった頃の「月刊宝島」〟と「月刊カドカワ」をこよなく愛していたタデコとふたりで渋谷公会堂に観に行ったのでした。

華奢でハンサムでもなんでもないアーティストである原マスミ……なのに、初めて観た瞬間に「あう、こいつは、ただ者ではない……目が離せない存在だよ!」と、初めて柳ジョージを観たときと似た……いや、予備知識がない分もっとぶっ飛んだ感動を覚えたコンサートだったのでした。

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……こんな風に、立花ハジメや戸川純というアーティストのライブに連れ出してくれた蓼沼多美江という、まか不思議でオイラにゃ決してマネの出来ない世界観のイラストを描く女……。

人生は勝ち負けじゃないんだよ。

そんなことはハナからじゅうぶん身に沁みるほど理解しているさ。

だけど、彼女が死ぬまでついにタデコに勝った。と思ったことがない。

そんなヤツでも、デビューの機会を仲々見つけられないイラストレーター達の手助けになれば。なんつって、仲間を集めて銀座の画廊を借りて23歳の時から10年間主宰した〝Ginza Illustration Collection〟を、画廊がつぶれたために終えた時、参加してた延べ30人くらいのアーティスト達の作品を思い出して、出来るだけのことしてチャンスを与えてあげたい。な~んて思い上がっていたものでした。

オイラが何もしなくっても、イラストレーターとして一人前に活躍している人もいるし、あんなものは腰掛けってなもんですげ~会社を起こした人もいるし、〝いい想い出〟にして、全然違う業種で頑張っている人もいる。

私は、〝Ginza Illustration Collection〟で出逢った人達一人ひとりを全員尊敬しています。

なんのことはない。額に入れた当時の作品が数点自分家に残っているのは菊峰志麻(にしあに)だけかも知れないもんね~ o(*^▽^*)o~♪

あれからタデコは発表した作品は完売して、亡くなるまでに紀伊國屋書店の全国支店の数え切れない程のポスターや港区主催のB全ポスターや冊子の表紙を何枚も描きました。

こっそり色々描いていたかつてのメンバーだった成田安妃子は、「コンタツだより」の挿絵で再デビューしました。

菊峰志麻(にしあに)は……数千点のイラストが印刷物になっていますが、んまぁ、これはいっか…… (^▽^;)

しつこかった風邪が治りかけてちょいと頃合いの年齢になったにしあにさん。

目をつけた自分じゃ出来ないことをしでかせる仲間と一緒に、世に残る沢山の作品を作りたいんだよ!

と、改めて感じ始めた2019年の秋なのでした。

あう、気付いたら朝になってた……。

風邪ひいたからっつって、ここんとこ寝過ぎたせいか朝と昼と夜の区別が……なくなってしまった。

押し入れのエヴァが動き始めたので、ご飯やっていっぺん寝るかいね~(ФωФ)

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[写真]AD・D:西山久昭 I:蓼沼多美江。沢山作ったポスターの中のひとつ。

 

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